鳥野見知高 / Tomotaka Torinomi
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鳥野見知高(とりのみ ともたか)
2000年 東京生まれ
2019年 東京藝術大学 美術学部絵画科油画専攻 入学
2020年8月 二人展(永山健吾) TOBARIER GALLERY
2020年12月 個展 AKAI Factory GALLERY
2021年4月 グループ展「SEPT」企画、主催
2021年9月 グループ展 「ONTHERIVER」企画、主催
2021年10月 「SONOATODE」企画、主催
作品を作るということは真実を隠すということなのかもしれない。
鑑賞において実際に作品が占める割合は少ない。
作品の存在より、むしろその不在、幻を相手にしている。必然的に、わたしたちは何かを目で見ようとする時、それ以外も目に入ってしまう。例えば、自分の髪の毛や手、別のひと、大気、キャンバス、絵の具、塵、壁、光、影など。境界が定められていない展示において、何を見るかの選択は常にあなたに委ねられている。見ないこともできる。(いつかもっと記述したい)
見ることの始まりにおいては、選択することが命運を決する力を持つ。
「印象」とは事後的に確認される類の出来事なのだ。この回想、この確認は、言葉なしでは出来ない。誰かが観測して、かたちにしなければならないということだ。あの時にこんな風だったと。言葉で証言することによって、歴史的時間の中に存在していたことを確かにすることができる。ここにあってよいものだと。
作品と作家を重ね、同時に観測者も(作家と観測者が同じ場合もある)重ねる。全てを重ねて、観測者が同じ向きの時間にいるのかをまず確かめる。違う場合はそれでもいい。
これでようやくわたしたちは、みること、移入に挑戦することができる。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という一文から、どういうことを読み取るべきか鐘 の音は物理的に考えれば、いつもと同じように響く。しかし、それが何故、その時々で違って聞こえてくるのか。それは人間がひたすら変わっているからです。聞く方の気分が違えば、鐘の音が違って聞こえる。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」 川がある、それは情報だから同じだけど、川を構成している水は見るたびに変わっているじゃないか。 (養老孟司『バカの壁』抜粋。)
私は自分自身の中の「美しさ」(芸術)を読むのである。
さらに言うのであれば、見ることの始まりは「印象」のなかにあるのではなく、それを事後的に構成する「言葉」のなかにあると言うことさえできそうである。なぜなら、言葉によって再構成されない限り、それがあったということの確認は不可能なのだから。
どんな作品も、「印象」を言葉以前と言葉以後に分かつ切断の線が入らなくてはならない。さもなければ、美しさは知覚されることなく過ぎ去ってしまう。
どんな作品だったかを思い出そうとするとき、ひとは記憶の中の作品に移入する。
回想と、そして知覚の問題なのだ。「美しさ」とは知覚される感情であり、「美しさ」は「言葉」によって気が付く。もし美しさがあり、人に知られないものであるなら、どのようにしてでも「美しさ」は自分自身を人に知らせずにはいられない。美しいと認識することによって「美しさ」は保たれる。ひとは昨日みたことを思い出し、自分に物語り、反芻しているうちに、「美しさ」を始めている。 「美しさ」は未来の回想の中に生まれ、記憶をすみかとしている。気が付かないうちに、ひとに知られが「美しさ」の理想的な境地なのだ。
(参考:『愛について━━プルースト、デュラスと』鈴村和成、『象徴と藝術の宗教学』ミヒャエル・エリアーデ)
旅をしながら絵を描いたらどんなに楽しいか。子供の頃ペンケース片手に思ったことがあった。これを持って、どこかへ行きたい。行けたらいいなと思った。
夜の海、大きな谷をみたとき、これを絵にしたいと思った。何度も思い出そうとすると、以前の記憶よりも美しくなっていることに気がついた。そして、何をみていたのか、何をみようとしていたのか、だんだんわかってきた。キャンバスに描かれたかたちがわたしのみていた景色だった。