完全な経験/想像の夢想 ー3人のアーティストによる視点ー

榎本マリコ / 高屋永遠 / 石井佑果

記憶の戸棚。
思い出の彼岸にふれて、いくつかの断片が転がりゆく
手繰り寄せられる意識に浮かびあがる
時間と空間に采配されるイメージの切れ端
世界との関係の切断の中に
いかなる詩を描けるのか

本展は、絵画作品として紡がれるアーティストの視点を通して、絵画作品におけるイメージの機 能や詩情を考察していくものである。

さまざまな他者ーそれは人間のみでなく環境としてーに出会わざるを得ない世界のもとで、内と 外の境界を曖昧にし、詩情を喚起するイメージは、むしろ現実世界を際立たせる逆説的な思考を 促していく。空間的な詩情ともいえる絵画上の世界との関係を、「記憶の戸棚(あるいは引き出し ともいえよう)」を持ち寄って語り直すことは、芸術的想像/創造の追体験ともいえる広大な内面 世界をあぶりだすだろう。

ここで扱いたいのは、想像力の自律的な活動、そして詩的感応を惹起するイメージの諸問題を 手繰り寄せることに他ならない。ガストン・パシュラールは、『空間の詩学』において、次のように語る。

『一般に事実は価値を解明しない。詩的想像力の作品においては、価値はある新奇なしるしをおびているため、過去に関係するものはみな、その価値をのぞいては生命をもたない。一切の記憶はまたふたたび想像されなければならない。われわれは記憶のなかに、想像力の生きた光をあてなければ、よみとることのできないマイクロフィルムをもっているのである。(※1)』

絵画の空間が与える詩情は、完全なる経験とされる、可塑性を欠く現実こそ虚構であると示す。
そして空間を位相するという意味での『想像』そのものに与えられる『夢想』を許す。

本展で強 調したいのは、これまでの幾度もなく語り尽くされてきた「イメージ」の概念を更新することではなく、現実から束縛を受けることなく記憶の断片を持ち寄ることができるのか、というひとつの態度に関する事柄である。あるいは、もうひとつの世界を建設したいと願う、我々の欲望そのものについてもいえるのかもしれない。

※参考文献:※1『空間の詩学』(ガストン・パシュラール=著、岩井行雄=訳、ちくま学芸文庫、 P300から引用)、『想像力の問題』(ジャン・ポール・サルトル=著、平井啓之=訳、人文書院)

出展アーティスト紹介

【榎本マリコ】
榎本マリコは、植物や動物で覆われた顔や人をモチーフとし、独特な雰囲気を生み出すシュールな世界観で知られている。
チョ・ナムジュの小説『82年生まれ、キム・ジヨン』(筑摩書房)、 川上未映子の連載小説「黄色い家」(読売新聞)の挿絵などを手掛け、それらの著者はフェミニズム・アイコンとして発信されている。顔を隠した「匿名的」な人物像は、様々な不安や未来への閉塞感の自問自答にも捉えられ、いわば鏡のようにも感じられる。

榎本の絵に見られる「女性の顔を隠す」という行為そのものは、女性の匿名性を強いられる現代社会の人物像の可視化を示唆しているともいえるかもしれない。
『82年生まれ、キム・ジヨン』で扱われている事例を照らしても、韓国では女性は結婚と同時に名前を失うことから、作中では批判として登場人物の女性はフルネームで記すといった具体的な対応がとられている。名前を失わせること(=匿名性を強制させられること)は、同時に独立した個の人間としての尊厳を失わせるもので、言い換えればひとりの人間として認められていないということの表れに他ならない。このような事象は夫婦別姓が認められていない現代の日本においても想像に容易いだろう。その延長には、公的支援や相続といった具体的な行政手続きにおいても不利益を被るシステムが醸成されている。(婚姻をめぐる家制度の課題は、第二次世界大戦後の過剰な国家の介入の反省という背景に視点が転ずるが、ここでは社会における女性のおかれた格差が示す問題意識に留める。)
 家族の理念という視座から紐解けば、恋愛・結婚におけるイデオロギーにも話題はのぼる。​​榎本が装画を担当している石島亜由美による『妾と愛人のフェミニズム 近・現代の一夫一婦の裏面史』(青弓社)でも、女性の顔の匿名性があげられる。本作は歴史的に見た「女性」のあり方、社会的イメージの変遷を評価検証するものだ。

榎本の描く女性象全体に言及できることかもしれないが、本展出展作品も含め、花や虫といったモチーフが、顔、特に目を覆い、ある意味で自然のもつ力を受け入れざるを得ない存在としても映る。また「蛇」というモチーフの引用も神話的なものとしてみれば、何かに苦しめられていることの示唆としても解釈できるだろう。一方である種の賢明さの象徴とも捉えることができ、これらのイメージの連鎖はいずれにせよ画面に描かれる「女性」をとりまく状況を暗示しているといえるかもしれない。

榎本作品の顔を隠すという「主体」の不在は、シュルレアリスムの観点からみても多くの社会的状況を反映しているひとつの謎解きかもしれない。特に、歴史の観点で紐解けば、榎本作品から抽出される表象は、ルネ・マグリットを想起させることが顕著だろう。ただし、その評価はマグリットだけにとどまらない。例えば、チェコのシュルレアリスムを牽引した女性画家であるトワイヤン(1902年-1980年)にも通ずる不穏な画面。トワイヤンは、多くの作品に通底している「主体」の不在から、奥行きのあるテーマ性を内包した装画なども多く残している。一方東洋では、岡上淑子にみられるモードで最先端なシュルレアリスムの世界観にも、「主体」の不在はしばしば見られる。シュルレアリスムの観点でいえば、形式的問題よりも、「隠された内容」に主眼が与えられていた経緯がある。隠された「顔」の表象は、画面上に浮かぶ遠くの見えない「主体」を追いかける、社会と自己を往復する孔のように機能するかもしれない。

【高屋永遠】

高屋永遠が2020年から取り組む「桜シリーズ」をとりあげたい。モチーフとなる「桜」は、桜そのものがもつ「個」の集合体という物質的なアプローチだけにとどまらない。ユング的考察から紐解くことが可能な社会的慣習や伝統的な精神は、わたしたち(=主に日本を中心とする)のもつ「共有地(コモンズ)」を想起させる。主に日本人がもつ桜に対する民族的な記憶は、一見、桜をモチーフとした美しい季節の到来を言祝ぐことに終始するように感じられる。その一方で、美しさを感受し、愛で、築いてきた、伝統的な価値観をあらためて検討を促すものとして機能する。記憶に新しいダミアン・ハーストの「桜」シリーズでは、「美と生と死」と語る一方で、高屋の桜は、極めて社会的な指向性をはらんでいる。詩情を生み出す「美」に内包される社会の感受性に、再び揺らぎを与えるものだ。

本出展作は、作家自身の関心にある「存在とは何か」を問う形而上学的な探究とともに絵画が生成されるプロセスをはらんでいる。「心的イメージ」とは、言語以外の内的な表象と定義され、私たちにはそれぞれの感覚に対応した記憶イメージや想像イメージがそれぞれの心に浮かびあがる象をもっているとされている。想起や空想によって描かれた象を結び、絵画における神秘的・幻想的な空間が画面上に広がることを前に、わたしたち(=鑑賞者)は、いかなる心象を生み出すのか、絵画に対峙する各々の解釈に委ねたい。

【石井佑果】

石井佑果は、果物や植物、壺や風景などのステレオタイプな西洋絵画を連想させるモチーフや筆致の引用、あるいはアルファベットやトランプカード、ピアノの楽譜といった記号的な要素の羅列や編集による絵画作品を制作している。
一見すると、意味の接続が明らかにされにくい複数のテーマを画面上でつなぎ合わせている。仮にこれが、テキストの羅列であれば、不協和音のようにも感じられるかもしれないが、絵画上では詩情を生み、どこにも着地しないような曖昧な感覚を誘発する。作家は「絵画的であることと絵画的でないこと、そしてイメージをどこにも着地させていない浮遊状態の感覚が自作にとって重要」と語るが、いわゆる絵画的なイメージとしての果物/植物/壺などと対比される記号的なモチーフのコントラストは、絵画がいかに成立するかという試みを示している。

西洋絵画に代表されるように、古くから描かれてきたモチーフに、意味のつながりにくいイメージを挿入することで、鑑賞者にある種の「ズレ」を生み出す。一見すると理知・数学的な記号をもつモチーフも、この「ズレ」が生み出す差異に言いようのない奇妙なスケール感を与えている。